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-長崎の観光地紹介-

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観光ガイドに載っていない隠れた観光地を発掘し紹介します。
すでに知られた観光地でも視点を変えることで見えてくる新しい発見を紹介していきます。

Vol.2  聖福寺

聖福寺 龍馬ゆかりの地のひとつに筑後町にたたずむ聖福寺があります。
 唐三か寺、長崎三福寺といえば、興福寺、福済寺、崇福寺です。これに聖福寺を加えて長崎四福寺ともいいます。聖福寺は鉄心道胖(てっしんどうはん)が開き、延宝5年(1677)に長崎奉行や長崎に在住した唐人たちで創られました。黄檗宗の寺というと独特の朱色が特徴ですが、聖福寺には朱塗りがほとんどほどこされていない和風建築に近い創りになっているため、かえって威厳に満ちた風情をなしています。

 このお寺が歴史の大舞台となったのは、慶応3年(1867)5月のことです。その年の4月に起きた「いろは丸事件」の談判の場として使われました。
坂本龍馬率いる海援隊の武器などを積んだ「いろは丸」と紀州藩の大型船「明光丸」が瀬戸内海で衝突し、「いろは丸」は大破し宇治島沖で沈没しました。龍馬らは武器や金塊などをつんでいたと主張し、「明光丸」の航海日誌や談判記録を差し押さえ事件の原因を追及しました。

 紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追求、さらにこの間、龍馬は世論を味方につけるため、長崎の繁華街で、「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」という歌を流行らせました。そのおかげで、長崎の町民たちが海援隊の人たちに、紀州をやっつけろと励ましに来るなど大いに効果を上げたそうです。

 賠償交渉が難航するなか、紀州藩宿の聖福寺で土佐藩後藤象二郎、紀州藩茂田一次郎による交渉が行われました。龍馬はこの場にいなかったといわれていますが、彼の働きで事故から1ヶ月後に紀州藩が折れ土佐藩は全面勝利しました。しかしその後に行われた調査の結果、龍馬が主張した武器や金塊などは積んでいなかったことが判明しているそうです。
 龍馬ゆかりの物語がある聖福寺ですが、山門に掲げられた日本黄檗宗の開祖隠元禅師の筆による「聖福禅寺」の扁額をはじめ、たくさんの見どころがあります。大雄宝殿横の有名な鬼塀。これは聖福寺の末寺がなくなる際に、廃材の瓦を積み重ねてできたものです。また、庭には禁教時代の悲話が秘められた「じゃがたらお春」の石碑があります。
当時のことに思いを馳せながらの、このお寺の散策はおすすめです。

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